逃げるか?戦うか?「従」からの脱出闘争とは ?

 みなさん、こんにちは サポートプロ 西田です。

 人生のコントロールについて。

 すべての事象はどこかの誰かが、
 「指揮権」「決定権」を持っていて
 コントロールしています。

 「自由なんて、キリスト教が作ったフィクションだ」
 という側面からすれば、

 今、ここで自由を味わっている気分さえも
 誰かにコントロールされています。

 その高さ、レイヤーから見たら
 自分の人生でコントロールできることは
 全くないことになってしまいますので、
 現実世界とか物質世界とかのレイヤーに焦点を当てていくと
 つまり、人間世界。

 しかし、この中にもレイヤーがあります。
 
 太陽暦で生活することとか標準時で生活することとか
 日本人として育って、日本語で思考することとか
 大きな大きな枠組みでのコントロールもほぼないです。

 もう少しレイヤー下げると

 日本に住むとか、日本語を使う使わないとか
 通年、人生として洋服社会に即して生活するとかしないとか。
 
 コントロールが無理!ではなくなってきます。

 さらに下げると

 どこに住む、どこに勤める、何の仕事をする
 たまに和服を着る、など
 
 コントロール性が上がっていきます。
 「選択の自由」自体があるかに見えますよね。

 どのレイヤーでも一つだけ言える共通点があります。

 支配者か被支配者か?
 主人か奴隷か
 主人か使用人か
 リーダーかそうでないか?

 低きに流れる、という言葉がありますが、
 自分が使用人か奴隷か支配されているのかなんてことは
 誰もいちいち考えませんから・・・

 自然にしていれば、低きに流れます。
 
 自然というのは「淘汰」のプロセスです。
 ぼくら事業家・起業家は「不自然」に生きないといけません。

 人生をかけて、とおして、

 「今のレイヤーは納得できない」と、
 一個でも二個でもレイヤーを
 よじ登る、遡る、駆け上がる、ぶち破る。

 逆をいえば、どこかのレイヤーにおいてのみ、

 僕らは必ず「主」なんです。

 僕らがしなければいけないのは

 今、どのレイヤーで「主」として満足してしまっているのか?
 その実体は、どんな奴隷であり、被使用者であり、支配を受けているのか?

 好きな言葉。

 flight or fight

 逃げるか?戦うか?

 そして、最後に大事なこと。 

 ただし、「分をわきまえて」ですね。

 どんなに、「主」であっても、どこかで、「従」であることを
 認識していること。

 「謙虚」でいられます。
 「謙虚」は弱さではなく、強さです。
 「剛」のものが強く見えますが、それは「弱さ」です。

 突破には「剛力」が必要ですが、
 自分が剛になることはありませんし
 表現者として「剛」は折れやすい。

 それをたまたま自分が脱したレイヤーにいる人よりも
 ひとつ上位レイヤーで「自由」かのように振る舞ったり
 「剛」をもって発信したらそれは滑稽ですらあります。

 レイヤー違いで、必ず「従」なのです、僕らは・・・。
 その諦観の上で、一つ上がることをあきらめない。

 すると,人生つねに右肩上がりなんです。
 80歳になろうと、も・・・。

                           にしだ拝


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